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皇后位が明文化される大宝律令より前(具体的には光明皇后より前)の「皇后」は厳密には「大后」。
平安時代は淳和天皇后正子内親王以来、醍醐天皇后藤原穏子まで100年間皇后が不在でしたが、以降は1300年代まで乱立といっていい頻度で登場します。
(なお、穏子以降二后並立の先例までは、天皇正妃は中宮と称されました)。
本来皇后あるいは中宮と称される女性は同時に1人しか存在しない決まりでしたが、平安時代中期、藤原定子を一条天皇の后とするにあたり、当時中宮であった円融天皇后遵子を皇后、定子を中宮と称して二后並立の先例が作られました。
さらには藤原彰子を一条天皇の后にするため、定子を皇后、彰子を中宮として一帝二后の先例が生まれると、後冷泉天皇の時代に1人の天皇に対して3人の正妃が並び立ったり、堀河天皇の時代に天皇の后妃でない媞子内親王(天皇の実姉)が准母として立后したり(尊称皇后)、崇徳天皇の時代には、鳥羽上皇の妃であった藤原泰子を治天の君の妃という立場から立后させるなど、さまざまな先例がつくられます。
室町時代から戦国時代にかけては天皇家の窮乏や摂関家からの入内が途切れたこともあって皇后不在の時代が続きましたが、江戸時代には江戸幕府二代将軍徳川秀忠の娘で後水尾天皇女御の徳川和子が約300年ぶりに中宮に冊立されて以来、死後の追贈もあわせ5名の中宮が輩出されました。
明治に入り中宮位は廃され天皇の正妃は全て皇后と称されることになり、明治天皇の中宮となっていた一条美子も改めて皇后として立后されました。
太皇太后の称号は奈良時代の藤原宮子(文徳天皇夫人、聖武天皇生母)に始まり、平安時代後期の藤原多子(近衛天皇皇后)まで、約400年間で追贈も含め15名が授けられました。
なお、現在においても太皇太后位は廃止された称号ではありませんが、当今在世中に先々帝の后が存命していた例がないため、約900年にわたって登場していません。
女院号は平安時代中期に藤原詮子(円融天皇女御、一条天皇生母)が宣下されて以来、わずかの例外をのぞき天皇生母・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・内親王を対象に授けられ、江戸末まで約900年間存続しましたが、明治維新にいたって廃止されました。
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